部屋には独特のにおいが漂っていた。
「お前にサイマスの希望を託し、新たな名前を与えよう……」
目の前に座る老人が、ゆっくりと、自分の頭上越しに何かを見るように、まぶたのしわを折り畳んで目を見開いていく。そしてそこに、何もありはしない。
「”トラスト”」
クラインが、望みもしない新しい名前に文句をつける間もなく、老人は崩れ落ちるように椅子に飲まれる。
左右から支えを得ながら、何事かをしばらく言い続け、それもそのうち途絶えると、傍らにいた教師が頭を下げるよう自分に促してきた。
不満は山ほどあるが、さっさとこの部屋から出たい。
そう思って、クラインは形だけの敬礼をして、開かれるドアにぶち当たるかどうかの勢いで歩き、部屋を出た。
部屋を出たと言っても、これから自分が何をすべきかもわからない。
老人……学長に、丁寧に礼をして部屋をゆっくりと出てきた教師が自分に追い付くのを待つしかない。
「トラスト」
早速、その名で呼ぶのか。
「今、サイマスに特司候補生は君一人しかいないから、君が受けるすべてのカリキュラムは君の能力に合わせて調整される。基本的には、制御官と指揮官の座学と実技、攻撃官の実技を横断的に受講してもらうことになる」
こちらが振り返らなくても、返事をしなくても、その教師は廊下を歩きながら説明を続け、自分を追い抜く。気に食わないがそれに従って歩く。
「候補生の寮棟は、学年やコースごとに割り振られていて、滅多にいない特司コースは、ここ、教師棟の空き室を使うことになってる」
「ここは教師棟なのか」
会話する気はなかったが、ずっと黙っているのにも飽きてきた。
今朝、突然、元居た場所から連れて来られ、学長とやらに会わされ、自分には関係ないような途方もない話を一方的に聞かされて、挙句、新しい名前まで押し付けられて。
それでも、しばらく「ここ」にいなければならないことは、さすがにクラインにも理解できたし、彼に順応力がないわけでもなかった。
「そうだよ、あとで校内の地図も渡そう」
「じゃあ、ここにいるのはみんな教師か?」
視界の端に、自分と似た背格好の少年が映る。その少年もまた、こちらを見ている。
「あぁ…彼は指揮官コースの候補生だよ。非常に優秀で、入学2年目で必要な知識と技能を習得し終えて…卒業年まで自主研究をしているから、よく教師棟に質疑に来ているんだ」
「ふぅん…」
「君と同じ位の年だ、仲良くするといい。そして、こっちが君の部屋だ」
一室の前で、教師は立ち止まり、部屋に入るよう促す。
部屋に入ると、どっしりとした机の上に、まくら投げみたいに投げ放題できる量の紙束と本が置かれてある。
まさか…
「君の使う教科書類だ。校内設備の案内や、地図もある」
明日の朝に、明日からのカリキュラムを渡して説明する、と言い残して教師はドアを閉め、去った。
緊張の糸が解ける。
「うっそだろ………!!!」
今朝まで。
もうじき、訓練学校(セントラル)を卒業して、仲間と実戦の世界に出る。
準備は万端だ、自分は十分戦える。
そう思っていたのに、突然、指導室に呼び出されて「士官学校への編入が決まった」。
仲間との挨拶もそこそこに、半ば連行されるような形でどんより曇った灰色の建物に連れて来られて、
「これ」
頭を抱える。
元より座学は苦手で、それでも周囲も似たり寄ったりで、特に困ったことはなかったが、
「これは無理だろ」
半回転して傍にあるベッドに倒れ込む。
「士官学校は頭いい奴が入るところだろ……!」
さっきの少年のような。