どうして今まで考えたことがなかったのか。
感染した味方は排除対象だ。
その「感染した味方」に自分の身近な者も含まれるかもしれないことを。
VE試験で「身近な者」に触れた瞬間、排除対象だと判断して、その後は頭で考えるよりも先に身体が動いた。生来的な「キラー」の本質が、自分の意志よりも揺るぎなく、行動をためらわなかった。
一撃で仕留めてから、目の前で横たわる存在と、今何が起きたのかについて考えようとして、頭が真っ白になった。指先から力が抜け、身体を置く重力さえもわからなくなっていった。
気付けば士官学校の一室で、教師が自分をシミュレーターの拘束から解いているところだった。
起き上がりながら、さっきのことは「シミュレーション試験」で、あれは「現実ではなかった」と理解できても、それでも、ためらわなかった自分を思考から追い出すことができずに、教師が何事か話しかけてきても答える余裕がなかった。
「催眠効果のある薬物を使用したので、その効果が抜けるまでこの部屋で待機するように」
そんなようなことを言われ、狭い一室に、一人で取り残された。
どれくらいの時間だったのかはわからない。その間、ずっと、ついさっき見せつけられた、いつか来るかもしれない「その時」のことを考えずにはいられなかった。
しばらくして部屋に戻っていいと言われて、廊下を歩いているとハインツに出会った。
「その時」じゃないのはわかっていたが、接触が怖くなった。
触れて、「その時」と知れば、自分は思考なく目の前にいる存在を斬り殺すことを知ってしまったから。
だから、リガンドが部屋に入ってこようとするのも拒絶した。
もう試験は終わった、触れても大丈夫だ、そう思ってもあのときは本当に無理だった。
恐怖に負けた自分の拒絶を、攻撃を、リガンドは避けるか、避けきれなくとも安全を確保した受け身をとってくれるだろうと、頭の片隅で考えた。多少は加減できたと思う。
だからなのか、一瞬よりももっと短い時間、リガンドの動きを読み落とした。
ここまで早く、的確にリガンドが間合いに飛び込んでくるとは思ってもいなかった。
仮にどちらも真剣を持っていたならば、相討ちになりかねない飛び込み。
「俺が感染したら、クラインが止めて」
密接した距離で、リガンドが強い、意志のこもった目でこちらを見る。「その時」がきたら、殺せってことか?俺に?どうしてそんな、
「クラインが感染したら、俺が必ず止めるから」
その言葉に、思わず溜息がもれそうになる。
触れた部分から、 “これは排除対象じゃない” と本質も断じて、途端に緊張が消え去った。
こちらの抑え込みがなくなって、リガンドもゆっくりと抵抗を解く。
安全を確かめたくて、一度リガンドを強く抱きしめた。呼応するように、少し遅れて腕が背に回される。
…こんな約束、でも、……そうか。
安堵と同時に思考が戻ってきて、 リガンドの左手首を掴み、ドアの向こうに呼びかけた。
「ハインツ!入ってきてリガンドの手当てして!」
「え、」
「ごめん、強く押し過ぎた……痛むだろ」
ドアが開いて、ハインツが少し慌てて入ってくる。こういうときはハインツにも可愛げあるんだよな。
「怪我はしてないよ!」
「打ち身に近いと思う、何かで固定して」
「……冷やす必要までは無いな、一応テーピングしておくか」
リガンドの訴えは無視して、ハインツが手際よく処置するのを見てから、部屋を見回した。自分でやったとはいえ、ぐっちゃぐちゃだ。思い切り蹴飛ばしたり投げたりしたからな。
ひとまず、ひっくり返ったソファを片手で起こしたが、倒れかけていたミニテーブルが支えを失ってガタンと倒れる。
「手伝うよ」
「リガンドは座ってて!でもハインツは手伝って!」
席を立ちかけたリガンドの気配に、振り返らずに言う。
ハインツには少しだけ怒っているからな。
まったく、俺が殺気立ってる所になんでリガンドを仕向けたんだ。半日ほど放っておいてくれれば、一人でも落ち着くことはできた……たぶん。
もし俺がリガンドに怪我なんかさせてたら、すごい落ち込むことになったんだぞ。
“ でも。”
ハインツが席を立って、散らばった本を拾い集めながら、机は?とジェスチャーをしてくる。軽く首を振ってから、自分一人で机の上下を元に戻す。
これ重いから、ハインツが手伝うと危ない。
“ 速かった。”
さっきの衝突を思い返す。リガンドの動きは、思ったよりも速く、そして低く、正確だった。
「攻撃官の攻撃精度は、特警とは比較にならないほど高い」
編入してすぐ位の頃に、ハインツがグラフを示しながら説明してくれたのを思い出した。確かに、あの動きは自主練でもう一度見せてもらっても、真似はできないかもな。
本当に止められるかもしれない。
リガンドを振り返ると目が合って、綺麗な笑顔を返される。
座ってろって言ったのに、散らばったノートを拾い上げてくれていた。
近づいて、その手に持っているノートを取り上げて、背を押し、もう一度椅子に座らせる。
「クライン、」
「ん?」
こちらを見上げてくる顔がほんといい…… そうだ、訪れるかどうかもわからない「そのとき」のことなんて今は考える必要はない。考えても自分の頭では解決策なんて思い浮かばない。だったら、何も考えずに、機嫌良くこうやって眺めていれば…
「天井にペンが刺さってる……」