第64話 トラスト

“世界に終焉が訪れる”

理由も原因も自分は知らない。
わかっているのは、世界が少しずつ壊れかけているということ。
世界を守る軍もゆっくりとおかしくなってきているということ。

士官学校は、「正しい判断を下せる士官の新たな輩出」という機能を喪失しつつある。
それは自分が在学中に何度も学長に呼び出され、話を聞かされ、知った。

でも、自分にはどうしようもない。
ハインツだって「最期まで最善を尽くす」としか言わない。

できることは限られている。

多少の覚悟をして、あの日……士官学校卒業の日……サイマスの外へと一歩を踏み出した───


「感染者から距離をとれ……!」
言ったところで間に合わない、そう分かっていても僅かな可能性へと叫んだ。
すぐに果てた可能性に、クラインは一瞬、呼吸を整えて集中力を高める。

この場にいる、動く非感染者は自分一人だけ───

感染者は誰ひとり、自分への恨み事は何一つ言わなかったように思う。
内臓を食い破り体内で増殖する敵に苦しみながら、かといって全てを斬り払う自分に救いを見出すわけでもなく。
最後に斬り払った感染者は、今際の際で何かを求め、腕を伸ばした。
親しい誰かを求めたのかもしれない。
それが分かるのであれば、まだまともな形を残しているのであれば、最期に二人の手を重ねてあげたい気もした……が、感染者の体に触れることは危険だ。

まだ僅かに動く腕に、サーベルを突き立て、崩壊を促す。
静かになった場で、危険の消失を全身で確認してから目を閉じた。

“もう少し……自分の対応が早かったなら、一人くらいは助けられたかもしれない”

感謝の言葉が欲しかったわけではない。だが、戦いを終えて、自分以外には屍しかないこの状況は虚しすぎる。
眉をしかめ、目を閉じたまま空を仰ぐ。
瞬間、何かが急に近付いてくるのを感じて咄嗟に体をひねり、その接触を回避してから目を開いた。
金色の洪水のような、自分と同じ色の髪が視界を埋め尽くす。

「お前は……」
「避けるのが少し遅い」
ヒュッと風を斬る音で鞘におさめたままのサーベルが振られ、こちらの体勢の立て直しが効かないままそれが鼻先を掠める。
「実技は優秀と聞いていたが、まだ教室レベルだな」
声の主を見て、あの部屋の写真を思い出した。
だけども、それとは髪の長さが違う。緩やかにウェーブのかかった金色の髪は、腰まで長く、ゆっくりと風に揺れている。
「初めまして、トラスト。私はトラスト・クヴァレ・ナイン。お前のことは教師たちから聞いていた」
「………」

あいつだ。あの、写真の。そして、自分に付け足された名前の、主。
差し出された右手に、応じる気分にはなれなかった。
触れなくとも、はっきりと能力の差を感じる。
「先輩に対してそんな仏頂面するもんじゃないよ」
無理矢理こちらの手を掴んで、握手を強制してくる『トラスト』を、クラインは睨んだ。
握力も強い……が、流石に性差か、振り払えると判断して、力ではねた。
「…おっと、」
こちらの反抗的な態度を特に怒るでもなく、どちらかといえば面白がるかのような表情を浮かべて、トラストがゆっくりと自分の周りを歩き始める。

「これがトラスト坊やの戦果か?なかなか綺麗な斬れ味だ。場もあまり乱れてない」
誰が坊やだ、と言いたかったが、それよりも先程抑え損ねた別の感情が強く出る。
「……全員感染した、殺すしかなかった」
吐き捨てるように呟く。斬れ味が綺麗だと?そんなお世辞は要らない。
自分が斬り払う速さより、敵の感染の方が早かった。

でも、お前だったら、きっと何人か守れていたんだろう?

「これが坊やの最善だったんだろう。なら、問題ない」
自分の睨みを無視してトラストは目を細めながら、こちらの顔を覗き込んでくる。
苛立ちと共に目をそむけ、トラストから離れようと歩き始めた。
瞬間、強く背を打たれ、乱暴に髪が掴まれる 。

「───ッ!」
力だけ、ならばこちらが上だが、的確に関節を押されてほとんど無抵抗に後ろに倒れることを覚悟し……
「…………」
重ねられた唇に、思わず半目になる。

「そう拗ねるな、私はお前に期待しているんだよ?」
「どこが…」
はねのける腕が宙を掻いた。
対象に避けられて更にバランスを崩しそうになるのを、地面すれすれでなんとか建て直す。
視界の外で笑われた気がした。

「次、会う時までに。死なない程度に実戦に慣れておけ」

金色の風が去っていくのを、クラインは見届けもせず、唇を手袋の甲で強く拭った。

「女が、最初っから舌入れてくんなよ……!」

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